住所:徳島県鳴門市大麻町坂東字塚鼻126

    宗派:真言宗高野派
    本尊:釈迦如来
    真言:「のうまくさんまんだぼだなんばく」
    詠歌:「霊山の 釈迦のみ前に めぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり」

    縁起:奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開いたお寺です。その後、弘法大師が四国巡錫の時、こちらで21日間修業された際、天人があらわれ、「人々を救うため88ヶ所を開かんと願うならば、ここを第一番と定むべし」と告げて姿を消しました。そこで、釈迦如来を刻み、天竺(インドの霊山)を日本に移すというところから竺和山霊山寺と号し、四国第一番の札所とされたものです。
戦国時代、長宗我部の戦乱のために焼け、明治時代にも火災に遭いましたが、現在は全て再建復興されており、札始めにふさわしい立派なお寺です。


本堂です。


多宝塔です。

父親の葬儀を済ませた、平成15年早春、何だか空しい。  この空しさははなんだろう?
せっかく、四国に単身赴任しているのだから、休みを利用してお遍路さんをしてみようか?
と思いつきました。
掛け軸・納経帳・白衣・ズタ袋・納め札・ろうそく・線香・輪袈裟・持ち鈴・数珠・・・・色々買った
車で廻るので、金剛杖はいらないか?と思ったが  結局買った。 道具から入る性格だ・・・

1年掛かるか、いつ高野山まで行けるか分からないけど、兎に角頑張ろう。
それにしても、何だか観光地みたいな雰囲気がする。
1番札所の周辺には、お遍路グッツを商いしているお店がいくつもある。
店によって、同じ品物が値段がバラバラ・・
御姿入れなんか、1600円の所と、2500円の所があった・・・  同じ物なのに・・

結局、5万円くらい使った。
車だから、日曜日の一日で何番まで行けるだろうか?
お寺の人に聞いてみる。
「拝み方にもよるが、お一人で廻るのなら、15〜16番くらい行けるのでは?」  と・・・
一日でそんなに廻れるのかあ〜〜   そしたら5日か6日もあれば全部廻れるの?
いえいえ、そうではありません。
「一日に2〜3ヶ寺しか廻れない所もあります。離れて距離があるのです」   と

そうか、そうか、草加せんべい!  なるほど・ザ・ワールド!   (*^o^*)
ともかく、頑張ります!

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  仏説般若波羅蜜多心経
  観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
  度一切苦厄 舎利子 
  色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
  受想行識 亦腹如是 舎利子 
  是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 
  是故空中無色 無受想行識 
  無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無限界
  乃至無意識界 無無明 亦無無明盡 
  乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 
  以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多故 
  心無堯礙 無堯礙故 無有恐怖 遠離一切転倒夢想 
  究境涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 
  得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
  是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
  能除一切苦 眞實不虚 故説般若波羅蜜多呪 
  即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
  菩提薩婆訶   般若心経
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  観世音菩薩が真の悟りの修行を深く行っていた時・・
  あらゆるもの一切全ては、流動的で変化し、固定的な実体性がないと徹見しました。
  この世の現実は、一切全てが流動的で実体がないから・・
  いたずらにものごとに執着して一喜一憂することなく・・
  努力することが大切なのです。
  それを徹見した観音さんは、生きとし生けるものの一切の苦厄を救いとることになったのです。
  シャーリプトラ(釈迦のすぐれた十大弟子の一人)よ!・・
  「色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり」・・
  色、形、あるもの全ては流動的で実体がないのであり・・空が形あるものを作っています
  即ち、およそ存在するもの、つまり物質的現象は流動的で変化し・・
  また、さまざまな原因や条件によって生じたものであり、実体のないものです。
  その実体のないものによって、色、形あるもの(物質的現象)は成り立っています。
  だから、そのような実体のないあらゆるものにとらわれず・・
  この世のすべては移ろうものであると諦観して・・日々を送ることが肝要なのです。
  私たちの精神は・・心の作用も色(物質、物質的現象)と同じく、空(流動的で変化し実体のないもの)であります。
  ですから、すべて空という見地にたてば、同じ人生が一変します。
  即ち、実体の無い物にとらわれるから苦が生じるのであって・・
  そんなものにとらわれなければ苦は生じてこないのです。
  舎利子よ、この世においては、全ての存在するものは実体がないという特徴があります。
  それをふまえて観れば、生を離れた滅はなく、滅を離れた生はありません。
  汚いとか、綺麗だとか拘っているのは人の主観的な心の作用に過ぎないのです。
  増えたとか、減ったというのは相対的なもので、そういうことに一喜一憂すべきではありません。
  れ故に、「空」という実体がないという立場においては、物質的現象もなく、精神、心の作用もないのです。
  即ち、それらのものにとらわれなくなるから、眼、耳、鼻、舌、身体、脳も無いのに同じなのです。
  から、見えるもの、聞こえるもの、香りも、味じも、感触も、意識もないのです。
  目で見、認識するという領域も実は無いのと同じです。
  くだらない慣習や、独善的で杓子定木なものも、無なのです。
  迷い、無知で自分自身を正しく知らない、自己抑制ができない・・
  あるいはそれにまったく気が付いていないことも無であります。
  また、悟れないとか、少しは悟ったんだよ、とかいう悟りも無なのです・・悟りにもふりまわされてはなりません。
  悟ろう、悟ろう、と思っている内はとうてい悟れるはずはありません。
  老い死ぬという悩みも苦しみも、この世の無知によるのです。
  生きとし生けるものは、全て老と死を迎えなければならないという道理を知るべしなのです。
  老とか死にとらわれない境地です。
  「空」という立場においては、この般若心経も、仏の教えさえもありません。
  これらにもふりまわされてはいけません・・智者ぶらず、悟りを得たとも思わない生き方です。
  自分は人より偉いんだとかいうように自惚れたり、天狗になったり、生意気な態度をとらず、邪念のない・・
  執われのない初心の初々しい、清々しい心を大切にしなければいなりません。
  真の菩薩はものごとを正しく識別する能力があるが故に、心にこだわりがない、こだわりがないが故に・・
  苦しみも悩みも恐れおののくこともありません。
  本末転倒な誤った考えは、夢のごとく空しいものであり、遠く離れるべきであります。
  是々非々を正しくわきまえた判断をし行動すれば、その人は永遠の平安に到達するのです。
  過去、現在、未来にいます諸々の佛(真理に目覚めた完全な人格者)は全てを正しく見通す見識を備えているので・・
  この上ない正しい悟りを得ています・・つまり心の安らぎを得ているのです。
  故に知るべし、完全な智慧、ものごとを正しく識別する能力、つまり般若波羅蜜多を・・・・・
  これは偉大にして神聖なる真言、迷いや悩みをふきとばす真言、不思議な力をもつこの上ない真実の真言、
  等しく比べるものなき最上の真言・・そして完全な智慧は一切の迷いや苦厄、悩み、恐れなどを取り除いてくれます。
  一つであるべき真理があっちこっちにもあって、互いに矛盾している真理など正しい真理ではありません。
  迷いを超克した完全な智慧により見識し、それをふまえた正しい実践により行えば本当の真理が見えてくるでしょう。
  羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
  (往こう、往こう、彼岸に往こう、彼岸へ皆往こう、さとりに幸あれ)


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