本尊  十一面観世音菩薩   聖徳太子作

      この観音の由来は佐々木三郎盛綱の守護仏にして、聖徳太子1刀三礼の尊像である。
      善福寺観音縁起によると・・・

      (前略) 頃しも元暦元年十二月、平氏左馬頭行盛備前児島に三千余艇の兵舟を浮べ、源氏を支えんと待かけける。
      同七日、藩の冠者源範頼藤戸の渡りに着陣ありといへども、船なくして諸勢徒に守り居るのみ。
      此時盛綱備前備中の境なる笹無山に尊像を安じ一心に祈誓し、渡海すべきの計略をめぐらし、少し瞬の間、夜半の頃ひ霊夢
      ありて浅瀬を窮知る。夜の明るを待つて其間三町計りの海の面てを朗等六騎従へ、馬にて颯と乗り入るれば、是をみて
      源氏の勢五千余騎一度に押渡り、平家一戦に打負け散々に敗北す。是観音の妙智力にあらずや。将に波浪不能没入御経
      むべならずや。(以下略)

開基  仙巖上人(時代不詳)

創建  「作陽誌」によれば、久世町の神林寺の創建(寺伝では和銅二年であるが、平安時代初期か)と同じ頃であるが、
     日名村の現在地には寛永十五年(1638)三月、快仙上人が堂宇を建立する。

創建由来伝承
     善福寺観音縁起によると

     現在の福田の地に仙巖上人という僧が庵を結び、安居すること幾許数年、時の領主、住僧の徳行勇猛なることに感服して、
     燈油の田を施すべしと使者を遣わした。しかし、上人は僧伽の境界として過量は好みませんが、袈裟で覆えるだけの地を
     免許していただきたいと云った。使者は帰ってこのことを領主に伝えると、無欲誠徳相ともに兼備することを感じ、再び袈裟の
     覆う地を与えることを告げた。この時上人は身につけていた大衣を出して、自大哉解脱の服無相福田衣の心になり袈裟を広げれば、
     不思議なことに袈裟は一郷に広がり、ことごとく福田衣となった。それよりこの地を福田というようになった。
     爾来、或時は住僧あり、また或時住僧なく時は過ぎていった。一時備前国児島の郡藤戸寺の住職快仙法印のころ、
     国主はもっぱら神道を信じ、仏法を禁制し、国制に従わない寺院僧徒は焼き払われ、また追い払われた。
     法印法難を逃れ、彼の草庵に本尊十一面観世音菩薩を奉じ、礼敬することとなった。朝に仰ぎ、夕に顧み、眼前の見晴らさるるを
     悲しみ現在の地に移し、十一面観世音菩薩を本尊と崇敬するようになった。

縁起由来
     「作陽誌」に依れば、善福寺は神林寺と開基を同じくし、神村山下にあって神林寺の羽翼となる。
     一時、宗旨を曹洞宗に改め、慶長元年(1596)に復するとある。

     神林寺は、元明天皇和銅二年(709)の開基といい、保元の際入宋沙門円誉上人大唐より求め得た仏舎利を持って
     神林寺を開山し、建久年間に源頼朝梶原景時をして堂宇を再建したという事蹟がある。美作国における山上伽藍として
     最古の歴史を有することは周知のとおりである。永禄九年(1566)五月十八日、沙門宝月坊の記した古文書と、
     宝暦十三年(1763)現住宥應の文書により明らかである。宥應師は、これより二十三年前、寛保元年(1741)三月二十三日
     には、善福寺住職として梵鐘を再鋳したことが梵鐘の銘にみえる。
     依ってみると、神林寺と善福寺の往昔因縁浅からぬことがわかる。しかしながら、当寺に現存の古文書なく、
     古刹として立証するものがない。

棟札  本堂   寛永六年三月
           文政二年四月

梵鐘  銘     昭和三十五年四月  智應上人代再鋳

建造物 本堂   昭和五十七年再建  五十六平方メートル
      客殿   昭和五十六年再建  二百四十四平方メートル
      庫裏   昭和五十六年再建  百九十二平方メートル

      山門   年代不詳 中村陣屋より移転
     鎮守社  毘盧化稲荷大明神社 昭和三十三年頃建築

            天満大自在天神舎  昭和五十五年頃建築

法会  正月三賀日・・・修正会祈祷   旧四月八日・・・花祭り   七月・・・土用五郎  百万遍祈祷
     八月十日・・・千日参り       八月17日 ・・・観音様縁日護摩供養

現住職名 近藤久應

歴代住職  仙巖 (この後、幾代か不詳) 快仙ー弘翁ー宥仙ー快舜ー宥誉ー宥存ー宥海ー即道ー清雄ー宥貞ー
        恵鎧ー宥海ー泰仁ー智應ー覚應

 

  

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